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2014年2月16日

鈴木たき子さん

熊野びと

山の暮らし、森の仕事、集落の祭、民話や伝説、熊野に暮らす人々に聞きたいことはたくさんあります。
みちの途中で伺ったお話を、音声とともに伝えていきます。

本宮町の小津荷(こつが)は、かつて紙すきで知られた里。熊野川がきらきら輝く冬の朝、和紙づくりを復活させた鈴木さんたちの工房を訪ねました。

鈴木たき子さん /1947年、三重県四日市市生まれ。31歳の時に夫の故郷、小津荷に家族でUターンし、3人の子どもを育てた。現在は「音無(おとなし)工房」で、手すき和紙の製造に取組んでいる。写真左は夫の鈴木起査生(きさお)さん(1948年生まれ)、右は協力者の鈴木徳蔵さん(1928年生まれ)

熊野川沿いの小さな集落へ

私がはじめて小津荷に来たとき、こんな山のなかに住んでいる人はどんな生活をしてるんやろ、買い物もどうしているんかなと思ったけどね、住んでみたら、そこそこいいものよ。今は車があるので買い物も不便じゃないけれど、移り住んだ当時は免許もなかったし、新宮のまちへ行ったときにまとめて買い込んだりしてね。長男が小学校にあがる一年前に早く慣れる方がいいかなと、こちらに引っ越してきて、主人の両親とおばあちゃんと同居。そのとき長女もいたけれど、次女はここで生まれて。長男が4年生になったときだったかしら、学年に1人ずつという状態になって、小学校が統合して廃校になったのよ。娘も小津荷に住んでいて、小津荷の子どもは、今、うちの孫2人だけなんですよ。

今は一人暮らしのお年寄りが多くてね。けれど、みなさん元気ですよ。うちのおばあちゃんも87歳になるけれど、畑をして朝市にも野菜を出してます。朝市は毎週木曜日に集会所のところで、朝7時から、夏場は6時半からですが、村の人たちが作った野菜を売ってるの。町内の方々が車で買いに来てくださるんですよ。みなさん高齢なので、たくさんは作れないけど、口コミで「野菜が安いよ」と広まって、常連さんもいるくらい。農業は盛んではないけれど、空家になったところが壊されたりして、今は小さな畑や田んぼになってるんですね。

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音無工房の誕生と和紙づくりの復活

10年ぐらい前に、静岡で紙すきをしている人が本宮町を訪れたんです。その時に小津荷の紙すきの歴史を知って、「本宮大社に奉納していた和紙やったら、ぜひ復活せなあかん」と、協力を申し出てくれました。この工房も空家だった民家を、ご近所の鈴木徳蔵さんが買い取って、補助金をいただいて改装し、足りないところはみんなで出し合って、素人ながら地元のみんなで工房につくり直したんですね。

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熊野川を臨む音無工房

私は教えてもらって紙すきができるようになったんですが、この工房で作られた和紙は、今、本宮大社の牛王神符(ごおうしんぷ・カラス文字の特殊な神札)に使われるようになりました。

和紙の原料は、こうぞ(楮)、みつまた(三椏)、がんぴ(雁皮)の3種類の木なんですが、外皮の下にある柔らかな内皮を使うんですよ。山からとってきた木を切って、釜で2~3時間ほど蒸して、上の黒い皮をはがして水につけると色が白くなってきて、それを乾燥させて、また水でもどして柔らかくします。それから2~3時間ほど釜で炊くと、もっと柔らかくなって。ちり取りしてから石の上において、棒で2時間くらいたたくのですね。たたいた皮を水につけると、これが紙のもと。

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それから、すき船のなかに紙と粘材を入れて、紙と紙がくっつかないように棒で混ぜて、紙をすきます。冬は水が冷たくて手がかじかんでしまう。夏は、紙のもとを水に3日も4日もつけていたら臭いが出てきて、ほっておくと腐ってくるんですね。何度も水を替えたら持ちますけどね。最初はうまくできなくて、紙が薄くなったり厚くなったり、一定にすることが難しかったですね。

本宮町内の小学校の3年生は全員、紙すき体験ということで、ここでハガキをつくっています。子どもたちは木が紙になるんやって驚いてますね。大人の人たちにも体験教室をやっていて、多いときには20人くらいも来られたりしてね。一度にできないときは、別にこんにゃくを作ったりもしてます。今、本宮大社の近くで紙すき体験をしたり、和紙を商品化しようという動きになっていますね。これからも町ぐるみで、そういった活動ができるといいですね。

水害で失われた紙すきの技術

実際に紙すきをされてた方はもう亡くなられてますけれど、子どもの頃、手伝ったことがあるという人はいます。なぜ途切れてしまったかというと、昭和28(1953)年の水害で、紙すきの道具がみな流されて、ほとんどの方がやめてしまわれたから。川に近いところで大きくやってらした方ができなくなって、山手でやっていた方が少し続けてらっしゃったようですが。

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昭和20年代頃の和紙づくり(音無工房所蔵の写真)

このあたりでは、紙すき用にみつまたやこうぞの木を植えていたようですよ。山に生えているがんぴの木は取ってすぐに皮がむけるので、子どもたちは山に行って、小遣い稼ぎで木を採りに行って、専門の業者さんに買ってもらってたみたい。今は杉や檜が植えられているけれど、昔は雑木が多かったからね。

紙すきは、昔は、女性にとって少しは収入になったでしょうね。とても薄い紙も作られていて。これが音無紙。化粧紙ですね。新宮の旅館やお座敷にも出していたようです。

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昭和30年頃に作られた音無紙(音無工房所蔵)

熊野川と共にあった暮らし-徳蔵さんのお話

紙すきはほんの女の人の副業ということで儲からんな。今、話してた音無紙。高級な紙だが、手間がかかる。わしが小さい頃は、障子紙も作ってたな。紙をたたいたり、水を汲みに行ったり、わしも紙すきの手伝いをしてたよ。その頃の子どもはずっと家事の手伝いや。

小学校を卒業したら、尼崎の軍需工場に行って終戦まで働いた。帰って来てからは植林の仕事をしてたよ。ここらへんの男は熊野川での運搬の仕事が多かったな。和船とか筏(いかだ)を組んで、奈良の十津川から河口の新宮まで木材や生活物資を運んでた。こっちから川を下るときの荷物は、炭とか、シイタケ、蚕(かいこ)。繭(まゆ)は夏だけやけれど、年に4回は繭(蚕)を買ってもらうために新宮へ運び、帰りは米、味噌、醤油、塩とか。筏の、丸太を組み合すときの材料のカンという金具も、新宮の鍛冶屋でこさえてもらって。紙ももちろん船で運んでたよ。

ここに来るのに今は橋があるけども、昔は橋なんかなかった。熊野川の河原に渡し小屋があって、そこから舟で川向こうの大津荷(おおつが)へ渡る。渡し賃は3銭か5銭ぐらいやったかな。昭和37(1962)年に、最初の吊り橋ができて、昭和57(1982)年に今の本橋ができた。それまでは陸の孤島で、大水が出ると行き来できん。そらもう、最悪や。山を抜けてくる道は犬道(けんどう)しかない。県道ちゃうで。犬が通るような細いけもの道やから犬道や。

今はジェット船があるけど、昭和のはじめ頃には、飛行機のプロペラをつけたプロペラ船が出てきたな。船賃が高かったから、なかなか乗れんかった。和船は安かったな。和船だと新宮まで6時間。水のあるときは3時間くらい。30人くらいは乗れるような大きな船。船の着きやすいところで手をあげて待ってたら、停泊してくれて乗せてくれたよ。和船(筏)は流れのない所は大変で、男3人が肩でロープで引っ張って舟を運ぶんや。新宮から十津川までだと、荷を積んで、一週間も10日もかかってた。昭和30年代にダムができてからは、筏師も運搬船もなくなったけどな。

和紙の原料を探して山中へ-起査生さんのお話

この辺には野生のがんぴもあるが、ここから少し行ったところの山に、たくさんのみつまたの原木があるね。野生のみつまたは、湿気が多くて陽のあたらないところに生えていて、山の持ち主さんの許可をもらって取りに行く。昔、植えられていたとこには集落の跡もあって、鹿はみつまたを食べないんや。みつまたは普通三つに枝分かれしていて上に伸びず、こうぞやがんぴと違って木自体がやわらかい。そして一度伐ってしまうと、次に伸びるまで3年かかり、枝が細いと皮がなくなってしまう。

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野生のみつまた(起査生さんのご案内)

みつまたは印刷用の紙に適しているから、本宮大社からもみつまたで作ったものがいいと言われてね。昔のお札(紙幣)はがんぴだったけれど、今はみつまたで作られているね。がんぴは光沢がある。みつまたの皮をはがした木は白っぽくて、残りの木で箸置きを作ったりもしてるよ。

紙のすき方には、流しすきと溜めすきがある。ここでは溜めすきの方法でやっていて、溜めすきは全国では少ないね。乾かし方もいきなり板の上に張っていたようやな。さらし方によっても違うね。熊野川でさらすんやが、昔は川もきれいだった。だから原料が白くなる。粘材も昔はビナンカズラやトロロアオイで作ってたと。みな自然のなかにあるもの。今、国産のみつまたやこうぞ100%で作っている人はほとんどないという話よ。海外のこうぞや竹など、繊維があるものを混ぜて使っているみたい。純粋な和紙が少なくなっているようやね。

ダムができて、熊野の自然や暮らしはずいぶんと変わった。材料があれば、昔のままの和紙を作ってみたいと思うよ。

編集・撮影 竹内利江