2013年10月18日

中辺路町兵生〈6〉廃村の秋祭り(後編)

里のみち

熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。

続いては餅まき。社殿の前から紅白の餅が投げられて、3人ほどいた子どもらも歓声をあげる。おとなたちもとても楽しそう。人数が少ないのに余るほど投げてくれて、大盤振る舞い。

神事の間中、感慨深げに社殿を見上げていた男性が「ようけ、拾うたかぃ?よかったなぁ」と声をかけてくれた。西 玉弘(たまひろ)さん、88歳だそうだ。

「このあたりはね、兵生の西垣内(にしがいと)って言われるとこで、西一族の居住地という意味や。十津川から落ちてきて、ここに春日さんを祀って住み着いたんやな。ぼくは直系の子孫にあたる」

そう言った時の玉弘さんの鋭い眼光。「なんだか武士のお顔に見えてきました」と言うと、「はっはっはっ」と笑った。大河ドラマのようだ。

玉弘さんによると、富田川の下流には春日神社が四社か五社あり、それらは洪水の時に兵生の春日神社から流された神像などを祀ったものだとか。
川下に流れたのなら取りにいけばいいし、川下の住民も持ってくればよいではないかと思うのは間違い。何しろ兵生は「川下に向いての道は草一本折るな」という言い伝えがあるほどの隠れ里だった。下流の里と通じる道をあえてつくらず、人が住む気配を消して山中で暮らしてきた歴史がある。

そんな山中で、塩を得られるかどうかは死活問題だったはず。塩を運ぶための交流だけは、必死の思いで持ち続けてきたことだろう。川上の、さらに山奥から通じていたであろう塩の道。そういう里だったからこそ、「わしも塩がなけりゃ生きられんのや」という松若の物語が生まれたのだと思う。

熊楠の記憶を語る西 玉弘さん

熊楠の記憶を語る西 玉弘さん

もうひとつ、びっくりする話を聞いた。
実は玉弘さん、昭和4年に苔の採集にやって来た南方熊楠と兵生で出会っている。熊楠は西家の隠居(離れ)に滞在し、当時5歳だった玉弘さんが三度の食事(茶がゆ)を運んだという。

「変わったおじいさんやった」と、しみじみ当時を振り返る玉弘さん。
いやまさか、こんな話が聞けるとは。熊楠がすっぽんぽんだった話は資料にも出ているが、その姿を生で見た方に出会えるとは。

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祭のあと、集会所に戻って91歳のみき子さんとも再会。勧められるままに食事会にも混ぜてもらい、並んでごちそうをいただきながらお話を伺うことができた。
聞けば40年前、集団移住するにあたって春日さんをどうするか悩んだそうだ。移住先にうつすことも考えたが、「神さんは森に棲む、森に憑くもんや」ということで兵生に留めた。以来、氏子さんたちは掃除やらお参りやらで、時おり春日神社に通っておられる。でも次の世代には、兵生で暮らした記憶のある人が少ない。

「兵生の祭もあと何年できるやろか」
じっと目を見据えて玉弘さんが言うと、みき子さんは黙って微笑んだ。兵生の里で生まれ、90年の変遷を見守ってきたお二人には、格別の想いがあるのだろう。

文:北浦雅子