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2013年6月30日

中辺路町兵生〈2〉廃村探訪(後編)

里のみち

熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。

そこから20分ぐらい歩いただろうか。
道沿いに屋敷あとがいくつも現れて、前方に鳥居が見えてきた。やっと着いた……と、ほっとする。人工的な色彩の消えた廃村で、鳥居の赤だけが生々しく鮮やかだ。

兵生の春日神社

兵生の春日神社

兵生村が700年近い歴史を閉じたのは、昭和49年4月7日のこと。最後の26世帯が産土神である春日神社をこの地に残し、川合地区・朝来平(あそだいら)に移住したそうだ。社殿横の小屋には、かつての兵生を写した航空写真が掲げられていた。各集落にはそれぞれ、小字名のシールが貼られている。

境内に飾られていた航空写真

境内に飾られていた航空写真

これを見ると、私たちが歩いてきた道にも、集落が点在していたことがわかる。兵生分校もあったようだし、棚田として開墾されている土地も広い。道中、富田川にかかる吊り橋(今にも落ちそうな)をいくつか見たが、川向こうの山あいにもいくつかの集落があったようだ。

神社の前には、安堵山から流れてくる水が涼しげな音をたていた。時折り聴こえる鳥の声と風の音。

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一応、ミッションは達成したし、熊も怖いしで、そそくさと折り返す。

途中、軽トラックが近づいてきて、私たちの横で車をとめた。
「どないしたん?」
70歳ぐらいの男性が窓から顔を出して、心配そうに聞いてくださった。こんなところを歩いていたら、遭難者かと思うのも当たり前。これこれこういう事情で、車をおいて歩いてきたのだと言うと「車で通れるのに。この道は山路(さんじ・龍神村のこと)まで続いてるんやで」と気の毒そうな顔。

その時ふと思いついて、兵生の松若っていうお話、知ってますか」と尋ねてみた。
「あぁ、松若さん、松若さんな、その橋を渡ったとこの生まれよ」
と、朽ちた吊り橋を指さして即答。松若さんと同級生だったのかと思うくらい、さらっと。

吊り橋の向こうにも集落が

吊り橋の向こうにも集落が

「この吊り橋は……」と絶句すると、「もうちょっと先から山へ登ったら、松若さんが住んでた岩屋もあるで。今は犬しか入れやんよな、ちっこい洞窟になってしもてるけどな」と教えてくれた。もともとは大きな洞窟だったらしいが、明治の水害で半分以上埋まってしまったのだという。

「車で行ける場所ですか」
「そら、行けやな。歩いて、誰ぞに案内してもらわなわからんわ」
「よくご存知ですね」
「そやかてわし、ここの生まれやもん」

と、お茶目な笑顔で。
なのに、私はうっかり聞き忘れてしまった。廃村になってからも旧村民で続けているという、春日神社のお祭りのことを。返す返すも悔やまれる。どうかまた、お会いできますように。

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無事、車に戻った私たちは、中辺路町から龍神村に通じる国道371号線を抜けた。
そして途中の峠で車をおりて、果無(はてなし)の山並みを写真に撮った。眼下に広がる山々のどこかの谷に、兵生の集落跡もあるはずだ。
怪物のような植林山に呑み込まれていく限界集落と廃村。

果無山脈の山並み

果無山脈の山並み

【付記】
 兵生は南方熊楠ゆかりの地でもある。明治43年と昭和4年の2度、植物調査のために熊楠が滞在したという記録が残っているそうだ。昭和4年、熊楠は福定から徒歩で2時間歩いて兵生に入っている。当時、熊楠が起こした奇行の数々には、中辺路の人たちもずいぶん驚かされたもよう。熊楠は兵生で「遠野物語」に似せた「兵生物語」を書き、お世話になった家に残してきた、と柳田國男に伝えているが「兵生物語」は今も見つかっていない。
 兵生では「松若は不老不死となって生き続けている」と語り継がれてきたが、熊楠もまた、この話に心を惹かれたようで、文章にして書き残している。明治維新の時、松若の力を求めて兵生にやってきた僧が安堵山に登って「松若やーい」と呼びかけ、村民一同がこれに声を合わせた、という話を記録しているのは熊楠先生。また、日清戦争の時にも安堵山で空砲を撃って松若の名を呼んだ者があったが、松若は現れなかったと中辺路町誌に記されていた。

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文:北浦雅子