古座街道(3)粘菌と蜂蜜と石文化
植林の森を抜けて、さらに歩く。
途中、木の枝に白い紙テープがひっかかっているように見えるのは、粘菌の一種である。前回、ガイドをしてくださった語り部さんが教えてくれた時、びっくりして「えっ!?」と思わず声が出た。この粘菌は、古座街道のあちこちで目にすることができますよ。
出発から3時間半ほど歩いたところで、佐本川沿いの舗装道路に出た。佐本川は古座川の支流。ここからの楽しみは、ダイナミックな渓谷美とジオだ。
ジオってあれです、あの、地球とか大地とか地下とかを意味する言葉で、このあたりは紀伊半島の土台をつくっている地層や断層が露出しているジオスポットらしい。
ところが。
何を思ったか、ここで私が道を間違えて反対方向に歩き出した。そろそろ足もだるくなってきた終盤に、コースをはずれてしまったのだ。20分ほど歩いて民家が現れた時、「あかんかも、、」とようやく気づく。道を尋ねようと民家に駆け込むもお留守。 改めて地図を見直して、「やっぱり、こっちやと思う、ごめん」と詫びて戻り始めたが、もうみんなクタクタだ。
足をひきずるように歩いていたら、養蜂家の紳士が前方に現れた。道を尋ねたところ、やっぱり私の間違い。「そら、反対やったなぁ」と気の毒そうに教えてくれた。がっくり肩を落として三人で歩き出したら、後ろから車で追ってきてくれて「まだだいぶ遠いさけ、乗っていきなぁ」と。
地獄に仏というか、佐本渓谷に養蜂家である。ありがたい。
その時、荷台に転がっていたのが、とれたてホヤホヤの蜂蜜だった。古座街道(1)で紹介したような、ゴーラの中身はこれだと思う。
びゅんびゅん遠ざかっていく景色の中に、注目すべき素晴らしいジオもあったのだろう。あったのだろうが、「地層? もう今日はええわ」「車って、さいこーやな」と歓喜しながら出発地点に戻った次第です。
お世話になりました。
親切な養蜂家さんに助けてもらったおかげで、夕刻前には無事に車まで戻ることができた。道の駅すさみで佐本のお散歩絵地図をもらっていたので、せっかくだし見所をまわってみることに。
まず立ち寄ったのは、中山神社。宝暦4(1754)年に讃岐の金比羅神社から勧請された神社で、参道には珍しい太鼓橋が架かっている。この橋が造営されたのは明治14年で、石標に刻まれている石工は「スサミの文助と定一」。傍に立てられた案内板によると、支柱や接着物を用いない力学応用の珍しい構造だとか。
文助と定一、明治なのに 姓がなかったのか。
「すさみの石工集団は腕前の良いことで知られ、大辺路界隈から佐本にかけて立派な石垣や石門が多く見られる」と、『熊野中道 古座街道 増補改訂版』で小板橋 淳さんも書いておられる。熊野地方には石の塀や階段が古代遺跡のように見える集落があるが、佐本もそう。
前回の取材のときに語り部さんに教えてもらったのだが、この狛犬の口の中で転がる玉はどうやって入れたのかわからないそうだ。
口の中を彫り進めていく際に、石を削って玉にしていくのなら、すごい職人技。これも文助と定一の仕事か。
大泉寺の石垣も立派である。
「沖縄のグスク(城)みたいやん!」と友人たちも感動してくれた。
かつて、捕鯨の技術を持った漁師の集団が沖縄から古座浦(古式捕鯨の基地)に移住し、石工の技術も伝えたという説もある。黒潮ルートで密接につながっていたのかも。
石段の脇にある石碑にも、すごいエピソードが。
文化11(1814)年に佐本に生まれた三本友八さんという老人を讃えるもので、友八さんが82歳のとき、明治29年に建立されたもの。
『すさみ町誌』に書かれていた三本友八翁の功績は、なんとも意外なものだった。医者はむろん、産婆さんもいなかった山間の村では、女性の出産は大変なこと。友八さんは文字も読めなかったが研究を重ね、助産のための器具も考案。多くの出産を助ける「産婆」として高齢になってからも村のために尽くした。その恩に報いるため村人たちは、彼がまだ生きているうちに碑を建てたのだという。
階段を上るとのどかな集落が一望できた。 境内にある四角い石の台は、土葬の棺桶を置くためのもの。座った状態で遺体をおさめる樽型の棺桶をここに置き、弔いが終わると男二人が棒で担いで墓地まで運んだという。この集落で生まれ、どこにも行かずにここで死に、土に帰った先人たち。先人たちの足跡を生々しく感じるところが古座街道の魅力だと思う。
《おわり》