2013年5月1日

本宮町大瀬〈1〉前久保さんの冊子

里のみち

熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。

大瀬という地名を知ったのは、今年の3月頃だったと思う。図書館であれこれ調べていた時のこと。本棚の前にしゃがみ込んで本をかき分けていたら、古ぼけた黄色い冊子がすみっこから出てきた。

前久保國一 著『古里の記』

前久保國一 著『古里の記』

『古里の記 –昭和五五年一一月から、平成七年四月末まで』
著・前久保國一 1995年 泉南歴史民俗資料社 発行

高さ20センチで全90ページ。小さな、薄い冊子で、表紙も痛んで折れ曲がっている。
「なにこれ?」と思ってしゃがんだまま読み始めたら、1分ぐらいでがしっと心を掴まれてしまった。貸出し手続きをして持ち帰る。

奥付けには、著者略歴として数行の紹介文があった。

大正七年生まれ、太鼓踊り保存会会長(音頭取り)
高等小学校を卒業後は、アジア太平洋戦争で二回の応召のほかは大瀬を離れることなく山仕事に従事して今日にいたる。目下、奥さんと二人で暮らす。

以下は序文の一部

ある朝犬を連れて車道を歩き、すぐ側を流れる小川、茂りあった山々を眺めたら、初冬の空をちぎれ雲が追いかけをしたら、山の瀬に消える。いろいろなことを考えながら歩いているうち、遠からずこの地も消え去るのではないかと、寂しさが浮かんで来ずにはいられない現   在、戸数はたった一二戸、二二名が住んでいるが、二一名までが六〇歳以上の老人。もし他界したならば生まれる畑もなければ種もない。(中略)

今すべての語りが消え去ろうとする。なんとか昔語りを聞いたこと、また見たことを、まずい文章、読み下りの悪いと笑う人もあることを知りながら、よし書くなら今だ、書き残して置かんと誰も言い伝える人がない。先輩たちも祖先よりいろいろの出来事、伝説など聞いているとは思いますが、自分一人の頭に入れておいては、その人が果てると知る人がない。今、私が父よりまた古老より聞いたことを記憶にある限り書く。

中身はそれぞれ短い文章で、大瀬について、生活について、氏神さんについて、山の神について、区有山の売却について、観音橋について、雨乞いについて、夜這いについて、ダルの話について、病気及び死人について、など三一章。どこを読んでも、かつての山村の暮らしが生き生きと伝わってくる。

大正7年は1918年だから、ご存命なら95歳。昭和55年、62歳で書き出して、書き終えるまでに10年あまりの歳月をかけておられる。生まれ育った土地への愛着、祖先への想いに突き動かされてペンを取られたのだろう。
追記には、こんな文章も添えられていた。

書くのがあとさきになっているところもあろうが、あろうとも、何分にも学不足の私でございますので、その点お笑いくだされて結構です。

「あろうが、あろうとも……」

口に出してぼそっと言ってから、地図を広げて大瀬を探した。
旧国道311号線に沿ってあるようだ。旧国道は山間部を上がったり下ったりしながら、くねくねと縫う道で、「国道とは名のみの酷道」と前久保さんも書いている。
その酷道が、現在の姿に整備されたのは1999年のこと。南紀熊野体験博の開催に向けてトンネルをほり、新たな道路を造り、旧国道とは比較にならない素晴らしい道ができた。田辺〜本宮間の所要時間が一気に短縮されて、地域の方々も喜ばれたと思うし、観光客にも便利になった。

今、国道を走行すると、旧国道沿いの集落と出会うことはほとんどない。大瀬もたぶん、そういう集落のひとつ。

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文:北浦雅子