本宮町大瀬〈4〉古老との出会い
里のみち
熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。
湯の峯温泉の小栗屋さんに宿泊させてもらった夜のこと。宿のご主人で、郷土史家でもある安井理夫先生に「大瀬の方に話を聞かせてもらいたいのですが」と相談してみた。安井先生はすぐさま大瀬出身の男性、野地さんに電話をかけてくださり、後日、大瀬の公民館で話を聞かせてもらえることになった。
というわけで数日後、再び大瀬。
迎えてくれたのは70代から90代の方々だ。
男性は前久保定さん(74)野地保美さん(73)前久保圭一さん(83)。3人とも大瀬出身(いとこ同士)で、現在は白浜町や旧田辺市内、上富田町に暮らしておられる。
女性は仲トシ子さん(80)前久保君枝さん(87)久保ツヱ子さん(91)で大瀬在住。
大瀬には現在8軒の家があり、住んでいるのは11人。一番若い人で、73歳だとか。
まず、私がお聞きしたかったのは……、
かつて70戸もの家があったと聞くけれど、いったいどこに家があったのか、ということ。
周辺には川をはさんで少しの土地があるだけなのだ。
「もともとはねぇ、あの山の上の観音さんのまわりに家がようさんあったんです」
公民館の窓から川向いの山を指差して、前久保圭一さんが言った。
えっ。
実はその日、私とひろのさんは少し早めに大瀬に来ていた。小雨の降る山道を20分ほど歩いて登り、馬頭観音さんにお参りをしたのだが、人が暮らした気配はまったく感じなかった。
だって、そこは鬱蒼とした植林の森だったのだから。
「本来は山の上が大瀬の中心やったんです。昭和4年に、下に県道(その後の旧国道)できたから、ほいで下へだんだんとうつって、昭和50年には上は一軒もなし。昔はここからも、あの上に家がようさん見えたんやで」
「今となったら信じられんでしょ」と聞かれて、うなずく。
「信じられん」と思っているのは、大瀬の皆さんも同じかも。
「道よなって(よくなって)まちには便利やけどもやで、なんかしらん、人おらんよになった」
「おらんようになったのぉ」と、しみじみ。
下の写真は馬頭観音さんと、その周辺。皆さんと会う前に、ひろのさんと探検して撮影したもの。
山中から消えた各集落には、平(たいら)、上地(かみじ)、なかおか(漢字を聞き忘れた)、という字(あざ)名もついていた。皆さんも、もとは観音さんの横にあった平におられたそうで、長年暮らした土地のことを懐かしそうに話してくださった。こんなふうに。
観音さんの脇には水が湧いていて、山中に暮らす人々の貴重な生活用水だったそうだ。
何よりも、風呂の水を汲みに行くのが重労働だったと女性たちは話す。(水汲みも女の人の仕事だった)
「子どもおうて(背負って)やで」
「ほんまにえらかったのぉ(たいへんやったのぉ)」
大瀬には、三つの月が現れる「三体月の伝説」があるのだが、この月が見えるのも平の集落だったそうだ。
『ふるさとの記』の著者・前久保國一さんも、もとは平にお住まいで、國一さんのお母さんは三体月を見たことがある、という話を冊子に書いておられた。
空が広く見渡せた山の上だったからこそ、そんな話も語り継がれてきたのだろう。集落がなくなった今は木々が空を塞いでしまったので、三体月を見る場所も少し上に変えたとか。
観音さんからまだ奥に行くと、熊野詣での途中で行き倒れた人の墓、山中で亡くなった木地師の地蔵さんなどがあり、おばさんたちが今も供養をしていると教えてくれた。
毎月18日は観音さまにお参りする日なので、91歳の久保さんと87歳の前久保さんがお供えの花を持って山へのぼるのだという。この山道がけっこう急で、私たちはへとへとになったのに。(私はここで、生まれて初めて山ビルに生き血を吸われた)
その日は他にも、出稼ぎの話、山の神の話、虫送りの話、子育ての話、太鼓打ちの名人・権吉さんの話、狼や河童、大蛇の伝承、前久保國一さんの話など、いろいろ聞かせてもらった。頭の中は「まんが日本むかしばなし」の世界がぐるぐるしているのだが、考えてみればほんの数十年前の話だ。
「この60年ほどで世の中はいかに急変したか。今は100パーセント限界集落!」と誰かがけろっと言って、皆さんが笑った。
「不便なとこで産んでもらってよかった。おかげで何があっても少々のことは耐えられる」とも。
野地さんたちは故郷を離れても、大瀬のまつりごとや、高齢のおばさんたちのことを気にかけて通っておられるようだ。
「帰ってくるとほっとする」
「小広峠を越えると、かあさんの匂いがする」
口々に言う男の人たちに「次ん時は、茶がゆ炊いとくよ」とおばさんたちが目を細めた。
盆踊りの日にちを聞くと、一応は8月13日に予定しているとのこと。でも、開催されるかどうかはまだわからない。踊り手が集まるかどうか……。
「わしゃ踊れるけど、一人だけじゃぁのぉ」と、最高齢の久保ツヱ子さんが残念そうに言った。
久保ツヱ子さんや前久保君枝さんの年齢を聞いたとき、思わず身を乗り出してしまった。なぜなら私は、熊野地方の女性たちが担ってきた「荷持ち」に関心がある「荷持ち」とは背中に荷物を担ぎ、峠を越えて運搬する日雇いの仕事で、ずいぶん過酷な労働であったらしい。荷物は炭、檜の皮、筏に使う藤かずらなど。
久保さんも12歳の頃から1俵15キロの炭を、一度に2俵担いで山を越えたそうだ。昼間は荷物を担いで山道を何往復もし、夜はぞうりを編んだと言う。「えらい苦労した」とおっしゃるが、私の想像などはるかに超えているのだろう。
と、こんな話が聞けるのも、あとわずか。もしかしたら91歳の久保さん、87歳の前久保さんが、最後の語り手かもしれない。「運ぶ女たち」なくして紀伊半島山間部の暮らしは成り立たなかったはずなのに、和歌山県に山村女性の労働史はない。