湯の峯温泉、小栗さん蘇生のつぼ湯

本宮町大瀬の取材を終えて、新宮方面に向かって車を走らせる。トンネルを抜けたところで、目の前に現れたのは世界遺産にも登録されている熊野川だ。この日は特に水量がなくて河原ばかりが目立つ。熊野川と言うより熊野河原かも。

私はダムができる前の熊野川を見たことはないが、かつては「川の参詣道」の名にふさわしい水量豊かな大河であったと聞く。川や森を再生させるための先駆的な取り組みが、熊野から始まったらいいのに。ここは蘇りの地なんだし・・・と考え始めて数分後、熊野本宮大社に到着した。

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本宮大社には幾度となく来ているが、今年は初めての参拝である。おかげさまで「みちとおと」も無事に継続できておりますと神々に感謝をして、20分ほどでそそくさと車に戻る。時計を見ると、夕方の4時。

実は会いたい方がいた。
ここからひと山越えた温泉郷、湯の峯に住む郷土史家の安井理夫先生だ。事前にお知らせしていなかったのだが、ダメ元で電話をかけたら出てくれた。あの懐かしい、ほがらかな声で「はいはい、どうぞ来てください」と言ってくれたので喜んで峠を越えてゆく。

開湯1800年とも言われる湯の峯温泉は、熊野詣での人々が本宮大社への参拝前に立ち寄った湯垢離場である。谷あいの小さな温泉郷で山里らしい風情たっぷりだし、なんと言ってもお湯がいい。88度の源泉を自然に冷ました濃厚な「くすり湯」や、重病の小栗判官(おぐりはんがん)を蘇生させたと伝わる「つぼ湯」など、歴史を感じさせる外湯がある。安井先生はその温泉郷の一角で民宿「小栗屋」を営んでおられる。 

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先生は今年、82歳。いったん民宿をやめておられたので、私はこの日、近くの「あたらしや」に宿をとったのだが、なんと、小栗屋は1日2組限定で営業を再開していた。しかも、先生お一人で料理や掃除をしているそうで、「ちょっと今ぼく忙しいから、台所で話そ」と軽やかにおっしゃる。今日の宿泊客のために、全9品の料理を用意すると言う。

残念ながら写真が暗いのだけど、こちらが安井先生。小栗判官伝説の研究家としても知られています。(安井理夫さんのインタビュー記事はこちら。

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手際よく包丁を扱いながら、「ぼく案外ね、料理は好きなんやで」とにこにこ顔で話す。調理をしながらも私のためにお餅を焼いてくれたり、温泉コーヒーをいれてくれたり。くるくる立ち働く後期高齢者を目で追いながら、私はストーブの前に座って熱々のお餅をほおばる。「先生、お正月にテレビに出てましたよね? あの、吉田類のやつ。びっくりしました」などと言いながら(酒場放浪記に出てたんです)仕事の邪魔をしてしまったが、80歳を超えた男性が一人で民宿を切り盛りしているとは、なんて立派なのだろう。

しかも相変わらずアクティブに調査・研究も続けているとのこと。
「私さっきまで大瀬にいたんです。あそこは小栗街道が通っていたらしいですね」と言うと、ぱっと目を輝かせて隣室からささっと自作のパネルを持ってきてくれた。

以下の写真は、服部英雄氏の著作『峠の歴史学』に掲載されていた地図を元にして、安井先生が取材して作ったパネルだ。小栗街道とは熊野古道の裏街道で、伝説上の人物・小栗判官が通ったとされる道。「小栗さんと同じように体の不自由な多くの人々が、熊野を目指して歩いた複数の道が小栗街道と呼ばれるようになった」という服部氏の説に、安井先生は大いに感銘を受けたそうだ。(小栗判官の物語はこちら。

来世の幸福を願いながら、病んだ体で熊野まで壮絶な旅をしてきた人々。社会の最底辺を漂うように生きた人々が、熊野の神々に救いを求めて必死の思いで歩んできた道である。その道が忘れられ、消えつつあるのに、貴族や上皇たちが列をなした熊野古道だけが脚光を浴びて語られている。安井先生は、それを切ないと思うのだろうし、そんな話を聞くと私も切ない。小栗街道を掘り起こし、後世に伝えてゆくすべはないのだろうか。
(↓クリックで拡大されます)

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参考URL/ いまひとすじの熊野道・小栗街道聞書(服部英雄)

そうこうするうちに予約のお客さんが来られたので、失礼して今宵の宿に向かう。霊湯「つぼ湯」の前にある民宿「あたらしや」さん。レトロ感満載で私好みだし、素泊まりなら4000円という宿代もありがたい。(2食付きプランもあります)
この宿で生まれ育ったという女将さんも親切な方で、もの好きな私に昔話を色々としてくれた。

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部屋の窓から見えるのはノスタルジックな温泉街だ。旅雑誌の仕事もしているので温泉はあちこち行くが、湯の峯温泉は一種独特だと思う。
地霊とも言うべき、小栗判官の物語とつながる里。

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部屋の片隅に置かれた鏡台にも、ぐっとくる。

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まずは宿の内湯で疲れを取ってから外に出て、公衆浴場の前に一軒だけある食堂で晩御飯を食べた。そして最後のシメは、小栗判官が蘇生したという「つぼ湯」である。ちなみにつぼ湯は、世界で唯一、世界遺産に登録されているお風呂。子宮を思わす小さな湯壺に体育座りで浸かって、胎内回帰願望について考えてみた。
自分にはそれ、ないと思う。

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つづく
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投稿日:2017年2月27日
カテゴリー:みちとおと取材記
文:北浦雅子