大瀬 1
2017年2月21日

本宮町大瀬〈9〉4年後の茶がゆ

里のみち

熊野の道は里を結びながら、山中を迷路のようにめぐっています。古老たちの語りや歌、伝説に導かれながら行く里の道。訪ねたのは大瀬(おおぜ)・高原(たかはら)の集落と、兵生(ひょうぜ)の廃村です。

1月18日、本宮町大瀬の馬頭観音さんで最後の祭りが執り行われたことを地方新聞の記事で知った。御本尊は大瀬の山中から下湯川のお寺に遷(うつ)されることが決まったそうだ。

みちとおと「古道をゆく」で大瀬の記事を連載していたのは4年前のこと。伝統の盆踊りも見学させてもらったし、公民館で古老たちに話を伺ったこともある。当時の住民は後期高齢者の方々11人で、毎月18日の馬頭観音さんの日には、87歳の前久保君枝さんと91歳の久保ツヱ子さんが山に登ってお参りしていると話してくれた。
山上の観音さんまでは急な山道を歩いて20分ほどかかる。90歳前後の女性たちにはきついだろうと思っていたが、とうとう限界が来たようだ。

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「わたしも最近までお参りしに行ったんやけど、もうぜんぜんよういかん。93までは行ったんやけどな。もうよういかん」
95歳になった久保ツヱ子さんがしみじみ言う。

「建物も痛んで雨漏りするし、このままでは観音さんもろとも埋没してしまうということで遷すことになった。安全な下湯川のお寺がええんやないかというて、和尚さんに相談したら快く引き受けてくれて、ありがたいことです」
大瀬出身の前久保圭一さんが、安堵と寂しさが入り混じったような声で話した。

下の写真は今回、4年ぶりにお会いしたツヱ子さんと圭一さん。新聞記事を読んだあと、「もう一度お話を伺いたい」と電話でお願いしたら、あたたかく迎えてくださった。場所は4年前と同じ、大瀬の公民館だ。
当時87歳だった前久保君枝さんは息子さんが住む町に転居されて、もうここにはいない。病院に入っている方などを除くと大瀬の住民は現在5人になったという。

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お聞きしたかったのは、熊野地方の女性が担ってきた荷運びの話。炭焼きが盛んに行われてきた山間部で、炭を運搬するのは女性の仕事だった。大瀬の女性たちも炭に限らず、風呂の水や燃料の薪、杉皮、藤かずら、砂利などあらゆる荷物を背負って山を越えてきたという。

かつての熊野を知る貴重な機会なので、地元の方にも一緒に聞いてもらいたい。そう思い立って心当たりに声をかけたら、本宮町と中辺路町に住む二人の女性が参加してくれた。私も嬉しかったが、彼女たちが同席してくれたことをツヱ子さんも喜んでくれたと思う。

「わたしらの苦労したことが、若いもんのためになるなら」と、ポツポツ話し始めるツエ子さん。「若い時から苦労しつめてきたんや」と記憶をたどり始める。

ツエ子さんは大瀬に生まれ、19歳で大瀬の男性と結婚。第1子が3歳の時に夫は出征し、終戦後はシベリアに送られた。夫が不在の7年間も、一度に2俵(30キロ)の炭を背負う荷運びの仕事をして暮らしを支えたという。
「そら、えらかった(キツかった)。休むひまなんてひとつもない。人ら遊んどっても、自分はこんなふうに生まれたんやなと思ってあきらめてな。新宮も田辺の町も知らんし、温泉も行きゃせん」

「君江さんと連れ立って製紙工場へ働きにも行った。夜明け前にちょうちんもって、あがら苦労するのぉ、って言いながら山越えて。いったん下りたところで夜が明けて。その時、前を歩く君江さんのもんぺの柄がようやくちょっと見えたんや。明るなったら、そこへちょうちん吊っといて(帰り際に取って帰る)、ほいて、またそこから山を上がってな、てっぺんからは近露と野中の里が丸見えや。高い高い。もう何時間も登らんなん。仕事帰りにも、15キロほどのプロパンガスの上に10キロあまりの米つけて担いできたこともある。えらかったで、そら」

「そうですか」とか「ほぉ」とか私は答えるのだが、そのつらさを実感できるわけもない。プロパンガスと米か・・・と想像しながら、目の前にいる小柄なおばあさんの肩を見る。

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お昼どきになり、ツヱ子さんと圭一さんが茶がゆを炊いてくれた。熊野地方で古くから日常的に食べられてきた郷土料理だ。山ばかりで田んぼが少ない地域なので、貴重な米を番茶で煮て増やす調理法が広まったのだろう。 (米もなく、麦で作るのが主だったという話も聞いた)

圭一さんの奥さんが作ってくれた美味しいおかずや漬物と共に、みんなで熱々の茶がゆをいただく。 番茶の味がしみ込んだお米が香ばしい。

「よもや、ねえちゃんらとご飯よばれるなんてこと、夢にも思わなんだ。長生きはせんなんもんやな」とツヱ子さんが目を細めて言ってくれる。

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食事をしながらも、昔話は尽きることがない。狼の子を見た話、学校が遠くて苦労した話、天狗が飛ぶとおどされた話、火の玉が橋の上をコロコロ転がった話、土葬したはずの遺体が帽子をかぶって道に座っていた話(←実話です)などなど。
こんなにどんどん話題が出てくるなんて、山暮らしは過酷な反面で豊かなのだと思い知る。

「ようあんな苦労してきたもんやと思うわ」。質問を荷運びに戻すと、ツヱ子さんが少し目線を上げてそう言った。「どれ運ぶんも、みなえらい。たやすいっていうものは何もなかった」

「山仕事から帰ってきたら日くれるまで畑して、終わったら家のことして晩には夜なべしてダツ編んで」

ダツとは木炭を入れる俵のこと。原料のカヤを山に取りに行き、2メートルもあるカヤを束ねて腰を曲げて家まで背負ってくる。夜なべ仕事でそれを編みあげ、炭焼き小屋まで運び、帰りは炭を詰めて炭俵を運んでくるという厳しい労働だ。(昭和30年代にダンボール箱にかわるまでダツは作られた)

大瀬で生まれ育った圭一さんも、母親たちの労働を目にしながら育った。「炭焼きさんでも、男の人はクローズアップされるけどよ、その裏で灰まみれになって仕事した女の人らがいてる。その人らがなかったら、成り立ってない」と、力を込めて言った。

圭一さんが、当時の様子を偲んで書いたという詩を見せてくれた。

母さん里からダツおおて
そのまた上に僕がのり
岩上峠を越えながら
貫一、お宮をうととった

ダツを背負い、その上にさらに子どもを乗せた母親が、里から山中の炭焼き小屋まで急な岩上(いわがみ)峠を越えてゆく。「辛抱しとった中でも、お宮・貫一の流行歌を歌ってた。そんな苦労しながらも歌うたってたというのは、あんまり苦にも思わんと、そんな生活があたり前やと思うてたんちゃうかな」と圭一さん。

山に生きる母親の、たくましいことよ。

「苦労しつめてきた」と話すツヱ子さんの楽しみは、子どもの頃から踊ったという盆踊り。
「こんなふうに、扇を柔らしぃに。シナをよって(シナをつくって)」と説明しながら、大瀬の盆踊りを教えてくれた。
「今は楽さしてもろてよ。5人の子どもらがみんな親孝行してくれて幸せや」と繰り返すツヱ子さんに、「子どもはみな、母親の背中見てきてるからな」と圭一さんが答えた。

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「あんたら、わたしがあっち行くまでまた来てよ」とツヱ子さん。
「あっち行くって、どっか行くんですか?」と聞くと、「あの世。他にどっこも行くとこない」としゃきっとした声で間髪入れず。
そして「今日はまったく楽しかった」と何度も言ってくださった。

公民館を後にして、馬頭観音さんにお参りするために山道を登る。ツヱ子さんと君江さんが、参拝のために2年前まで通った道だ。30キロの炭を背負って歩いてきたお二人にとったら、花を手にして20分登るくらい何でもないことだったのだと、ここで気づいた。

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観音さまを祀る庵の屋根には、雨漏りを防ぐためかブルーシートがかけられていた。山の変貌と集落の変遷を見守ってきた本尊も、まもなく大瀬を去っていく。
周囲を見回すと植林に埋め尽くされて、数十年前まで20戸近い民家が点在していたなんて幻想のようだ。庵の前を通る山道は、小栗街道と呼ばれた熊野古道の裏街道。集落がひとつ消えるたびに、山の道もひとつずつ消えてゆく。

「18日の観音さんの日は、出店も10軒ほど出て賑やかやったんやで」と言った、ツヱ子さんの声を思い出した。

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落人の里の物語・本宮町大瀬

 

【付記】その後、ツヱ子さんたちが働いていたという製紙工場について、圭一さんにお尋ねしたところ、次のような回答をもらった。
製紙工場の事業者が山西商会→住友林業→本州製紙→王子製紙(現在)と移り変わり、山西、住友の頃には大瀬の平井郷に炭の集荷場があり、大勢の人夫が働いていた。その後、ツヱ子さんたちが炭の持ち出し作業をしていたということです。

文:北浦雅子